
第一章 仏教とは何か――システムの原点
1. かくれた知恵の宝庫
仏教と経営との関連性
仏教はわれわれの生活と密接な関係をもっている。それは、日常あまり深いかかわりがないようだが、人生の背景を大きく覆っている。われわれは、喜びや悲しみを仏前に報告することがある。葬式や法事に行くことがある。あるいは、寺院を回って仏像の美にうたれることがある。 そしてまた、宗教はいざというときに精神的な支えとして登場してくる。「苦しいときの神頼み」の言葉どおり、苦しくなると神様を頼りにし、悩みが生ずると仏様に相談する。しかし特に信仰のある人以外は、平穏無事な日常生活を送っているときは、宗教にたいして全く無関心である。 要するに、宗教に「すがる」姿勢はあっても、そこから生きた知恵を吸収しようという気持はあまりない。 宗教は「すがる」だけのものであってはならない。「ご利益(りやく)」を頂戴するだけを目的にしてはならない。宗教から多くを学ぶことが必要であろう。特に『仏教”は、かくれた知恵の宝庫である。 しかし残念なことに、現在、われわれと仏教との出合いは、非常に形式的なものになっている。形のみを受けついで、心をおろそかにしている。仏教とは抹香(まっこう)臭いものではなく、日常の生活に生き生きとよみがえるべきものである。 仏教を開発した仏陀は、われわれと同じように当り前の人間であった。その仏陀がある問題意識をもち、恵まれた生活を捨てて修行を重ね、『悟り』の境地に到達した。そして、みずから得た悟りを、より多くの人に伝えるために布教活動を行った。 仏陀が到達した悟りは、その後多くの弟子たちの研究により、新しい考え方に発展して、風雪に堪えて二千五百年後の今日に引きつがれている。 仏陀の活動は、まさに今日の企業活動に当てはめることができる。新製品の悟りを研究開発し、その製品を見事に作り上げ、商品として販売すべく営業活動、つまり布教をつづけた。しかも、ここで開発された商品である悟りのシステムは、その内容の素晴らしさから、二千五百年間のロングセラーとなって人々の生活に浸透してきたのである。 仏陀の教えは精神的な支柱になることはもちろんであるが、同時に、そこには具体的に活用できるたくさんの知恵が含まれている。 仏教から心を学ぶとともに、知恵を吸収する。そして、われわれの日常の行動に改めて生き生きとした活力を備えたいと思う。『仏教」を究めることは、われわれの思考の原点を探究することにほかならない。
仏教も経営もシステムである
まずはじめに、仏教と経営との関連性について考えてみよう。そもそも仏教は、システムの原点の”位置を占めている。そして経営も、『システム」が基盤となって活動を展開しているといえよう。 それでは、「システム」とはどういうことであろうか。「システムとは、"混沌(こんとん)”としたもの、つまり区別がはっきりせず、未整理な状態のものを、ある目的にそって、手段を組み立てること」と定義づけることができよう。 そして、経営の基本システムというのは、「市場という不確実な、まさに混沌とした状態の対象にたいして、『人・物・金』を活用して、利益を上げるために組み立てられたもの」といえる。 それならば仏教とは、どのような定義が成り立つのであろうか。仏教とは、「世の中で最も混沌としている人間の心を安心立命の世界つまり"悟りの世界”に導くことを目的として、組み立てられたもの」である。 仏教は仏陀つまりお釈迦様が、二千五百年前に開発した悟りのシステムを、現代、この二十世紀の日本人が、それこそ混沌としかいいようのない形で、引きついだにすぎないのである。
仏陀が開発したシステム
仏陀が開発した悟りのシステムは、美しい四つ葉のクローバのように、四つのシステムから成っている。これをわれわれ人類が安心立命の世界に入場できるように、論理的に、しっかりした形で提示したのである。 四つのシステムというのは、中心をなす葉として「苦・集・滅・道」システム、二番目の葉の「中道」システム、三番目の葉の「五蘊(ごうん)・無我(むが)」システム、最後の四番目の葉としての「十二縁起(じゅうにえんぎ)」システムである。これらのシステムについては、後で詳しく説明したい。 仏教というのは、その開祖である仏陀が開発した、美しい"四つ葉のクローバルにも似た四つのしっかりしたシステム群が原点にあったからこそ、二千五百年後のわれわれ日本人のところまで届いたのである。 経営も「人・物・金」というシンプルなものを、利益を安全に、そしてより多く出すために、いろいろな創意工夫がなされ、実践しているのではないだろうか。つまり、販売戦略とか、財務計画とか、組織効率とか、社員教育など、さまざまな武器を有機的に組み込みながら、運用しているのである。 仏教も、二千五百年の長い年月の間に、英知ある古代インド人、紀元後の優秀な中国人、そして、飛鳥時代からの俊英な日本人、その他さまざまな民族によって、安心立命の世界に入るために研究された。そして基本的な仏教のパスポートであるこの美しい四つ葉のクローバつ "悟りのシステム」が、改良に改良を加えられて今日に引きつがれてきたのである。
2. 日本における仏教の歩み
技術は仏教とともに入ってきた 仏教は日本では「大乗仏教」と「密教」というもっとも発達し、改良された華として、輸入され、受けつがれてきた。 残念なことに、現代のわれわれ日本人には、仏陀が育てたこの美しい四つ葉のクローバをいま原野からとってきたばかりという、全体としての生き生きとした姿で見ることができなくなってしまっている。 その葉を一枚一枚はぎとり、丁寧にもこまかく切りきざんで「押し葉」にし、そのうえ加工して色をぬり、香水をふりかけ、それでもたりずに、「ホルマリンづけ」にしてしまったのである。 しかし、われわれ現代に生きる人間として、過去を嘆くのはやめよう。過去のわれわれの先輩たちが日本人として、そのように故意にしようとしてきたのではない。 聖徳太子は日本国の発展のために、「仏教」を先進国の中国や朝鮮から輸入した。今でいうなら、開発途上国が工業プラントシステム一式を先進国から輸入し、自国の産業を発展させる着眼と同じようなものである。 「仏教」を取り入れるということは、仏像一つもちこめば事たりるというのではない。仏像を作る鋳造技術、それを安置する大きな寺院の建立のための建築技術、工芸技術、仏教行事の幔幕(まんまく)などをはるための織物技術など、数え出したらきりがないほどの産業の原点を、取り入れたことにほかならない。 これらの『技術”を当時の日本人に指導したのは、仏教とともに入ってきた先進国の中国や朝鮮の優秀な帰化人群であった。これらを受けついだ日本人は、それらの技術を家屋に武器に、農具に織物技術に、鉱山開発に応用し、古代日本国家の発展の基礎に大きく役立てたのである。
名僧と各宗派の確立
ちょうど、第二次世界大戦後の日本が、先進国より技術、人材、ノウハウを輸入して、今日の発展の基礎を作ったと同じことをやったのである。これは古代日本人の強靭な知恵である。 その後を受けついだ奈良時代の聖武天皇は、東大寺の大仏という一大建造物群を建立して、日本人の心の安心立命をねがった。これは現在としては新宿の高層ビル群にも匹敵する、いやそれ以上のスケールをもった規模のものであろう。 平安時代には、道鏡その他により、堕落腐敗した奈良仏教をたてなおすべく、空海・最澄という二大英傑が中国に派遣され、みごとにその任務に答えた。空海は高野山に密教を「真言宗」として確立し、最澄は大乗仏教群をまとめあげ、比叡山に「天台宗」として開き、共に日本のその後の仏教の発展の基礎を作り上げたのである。 鎌倉時代になると、貴族政治に代わり新しく武士の台頭の世となった。政治体制の変革は、当時のすべての階層の人々を、動乱と混乱の渦のなかに巻きこんでいった。 貴族たちは、自己の権力の崩壊を目の前に見て、いきおい「加持祈禱(かじきとう)」の心の世界に没入する傾斜を深め、武士は、親子、親族分かれての骨肉の戦乱につぐ戦乱により、権力を獲得していった。民衆は、この乱世の"はざ間」のなかで、人肉まで食さねばならない状態に追いこまれていったのである。 この明日をも知れない当時の各層の人たちの心を救済すべく、親鸞、法然、道元、栄西、日蓮、その他あまたの名僧が輩出し、仏陀が育てあげた悟りのシステムを「座右」におきながら、当時の現実の人たちに適応するように、各宗派を確立していったのである。
仏教をビジネスの土壌で再生させる
現在、われわれが葬式や法事の際に接している仏教のすべての宗派は、ルーツをたどれば、この仏陀が開発した美しい四つ葉のクローバから出発しているのである。 しかし、現代のわれわれが受けついだときには、この美しい、しかも生き生きとしているはずの四つ葉のクローバは干からび、四つ葉とも思えない、何か雑草の束のような形でしかバトンを渡されていなかった。 再度いう、「過去を嘆くのはやめよう」結果は『天の領分」である。過去を変えることはできないのである。これからの実践が、われわれ現代人に負わされた領分なのである。 良いではないか。われわれの手で、仏陀が二千五百年前に育てあげた美しい四つ葉のクローバをいま咲かせようではないか。ビジネスという土壌においてである。
3. 仏の世界のトータル思考
飛鳥時代には、産業の発展に仏教を活用した。奈良時代には、政治のシステムに仏教を生かした。鎌倉時代には、武士の戦略に仏教を有効に取り入れたではないか。 現代において、この仏教をビジネスに最大限に活用して、再び花を咲かせたいと思う。世の中で、最もドロドロして、つかみどころがなく、混沌としている「人間の心」を明解に、しかも論理的に説き、安心立命の世界に到達させるために仏陀が開発した美しい"四つ葉のクローバのシステムをである。
全体はどうなっているのか
本書では、仏教の「カケラ」を拡大して、無理にビジネスに当てはめようなどとは考えていない。仏教全体を"トータル思考”でとらえ、そのうえで、もっとも具体的に、また有機的に活用できるシステムとして、仏教をビジネスに取り入れていくことを考えたい。 そこでまず、現実にわれわれが接している仏教というものを、一度明らかにしておきたいと思う。 仏教というものは全く未知なものの部類に属する。未知なものを知る方法として、いちばん手っ取り早いのは、「全体はいったいどうなっているか」ということを把握することである。 細かい枝葉末節的なことは最初はどうでもよい。大切なのは、トータルとして、どのような構造になっているかをまずとらえることである。そうすると、細かい部分は不思議に自然とわかってくるものである。 そこでまず、「仏教の全体像」はどうなっているかということを考えるのが、仏教の理解に近づける早道である。現在、われわれが接している仏教の「仏の世界の構造」はどうなっているのかを把握することである。 われわれが接している仏様には、阿弥陀様あり、観音様あり、映画『寅さん』で有名な柴又の帝釈天あり、いったいこれらと「仏陀」とどういう関係にあるのだろうか。 奈良や京都のお寺に行くと、薬師如来あり、ミロク菩薩あり、不動明王あり、全く複雑のように見える。しかし仏の世界というのは、それほどむずかしい構造にはなっていない。 釈迦つまり仏陀は、人間として生まれ、出家して修行によって、悟りのシステム=(つまり"四つ葉のクローバル)を開発し、その四つのシステムをもって、四十五年間、インドのガンジス河中流地域を布教し、八十歳で入滅(にゅうめつ)(他界)した。 この仏陀の説いた悟りのシステムの真理を引きついだ英知ある古代インド人の仏陀の弟子たちは、一生懸命、この真理のシステムを研究しはじめた。そしてその間に「いや待てよ、仏陀はたしかに八十歳で入滅したが、『人間としての仏陀』と考えるより、『真理を解明』したのだから、その面から見れば、『永遠の仏陀』と考えたほうが道理にあうのではないか」と考え出したのである。
仏の世界の構造図
つまり、仏陀入滅後四百年ごろから、生身の仏陀を「永遠の仏陀」に変身させたのである。肉体をもった生命にかぎりある仏陀から、真理を説く、「永遠の仏陀」へとである。これでいきおい、仏の世界、つまりその構造が複雑になってしまった。 そして日本には、この「変身した仏陀」である「大乗仏教」と「密教」が輸入されたので、各寺院にいろいろな名前の仏像があるわけである。 東南アジアは、この変身する以前の仏陀、つまり「小乗仏教」であるので、その点から見れば、単純明解である。 『おん。あぼきゃ。べいろしゃのう。まかぼだら。まにはんどま。じんばら。はらばりたやうん。』 これが仏の世界の「構造図」を表現している言葉である。 これは古代インド語、つまり梵語で書かれた仏の世界を、そのまま日本語におきかえたものである。
(図:仏の世界の平面図「光明真言」分析) この図は、光明真言を分解し、それぞれの言葉が仏の世界においてどのような役割を持つかを示しています。中央に大日如来、四方に釈迦如来、宝生如来、阿弥陀如来、薬師如来などを配置し、それぞれの如来が現世利益、出世、極楽往生、病気平癒といった人々の願望に対応する構造を表しています。
つまり翻訳すると『供養する。北方釈迦如来(しゃかにょらい)の現世利益、東方薬師如来(やくしにょらい)の病気全快の利益、南方宝生如来(ほうしょうにょらい)の出世財産の利益、西方阿弥陀如来(あみだにょらい)の極楽往生の利益。これらすべてのご利益を、悪は善にかえて、成就(じょうじゅ)する』ということになる。 すなわちこれは、東西南北、四方から、人間の望み得るすべての願望を達成してくれるシステムになっているのである。 わかりやすくいうと、仏の世界というのは「四事業部制」になっている。「現世利益」事業部は釈迦部長の担当である。「病気全快」事業部は薬師部長担当であり、「出世・財産」事業部は宝生部長の担当であり、「極楽往生」事業部は阿弥陀部長の担当ということになる。そして、この「四事業部」を統轄する位置に大日社長がいるという構造になっている。 この四事業部は、それぞれ「菩薩」「天」「神」という社員を活躍させて、全人類のために、幸せになるように日夜はたらきかけつづけているのである。 仏の世界を、「平面図」で見ると以上のようになるが今度はこれを、「立体的構造図」として見てみよう。 中央部に、いま説明した「おん。あぼきゃ。・・・・・・」の仏たちを代表する「四事業部長」の仏たちの組織がある。この上に、すべての仏を統轄する社長の大日如来の座がある。四事業部長の四如来(によらい)の組織の下部構造として、八万四千といわれるさまざまな「如来」「菩薩」「土着の神々」が、それぞれ人間の願望を達成して幸せになれるように、配置されているのである。
(図:仏の世界の立体構造図) この図は、仏の世界をピラミッド型の階層構造で示しています。頂点に大日如来(社長)、その下に四方の如来(事業部長)、さらにその下に諸如来、諸菩薩、諸神(社員)が配置され、組織的に人々を救済する様子が描かれています。
これは、「真言宗(しんごんしゅう)」つまり「密教(みっきょう)」の仏の世界の構造図であるので、社長の座が、大日如来になっているが、「浄土宗(じょうどしゅう)系統」は社長の座に阿弥陀如来がくるし、「禅宗(ぜんしゅう)系統」では『釈迦如来」が座るというように、仏陀が開発した悟りのシステムの解釈の相違により、各宗派によって、頂上の仏が変わってくる。 「如来」とは「仏」のことである。つまり「悟りを得た人」「完成した人」のことをいう。「菩薩」とは「悟りを開くために修行している人」を指していったのである。 仏教には、この二つのランクしかない。それゆえ、われわれも「悟りを開こう」と決心して活動すれば「菩薩」であり、悟りが開ければ「如来」ということになるのである。 「天」とか「土着の神々」とは、インドで仏教が発展していく過程で生まれたものである。すなわち、当時インドで信仰されていた他の天および神々を、仏教が組みこんでいったのである。 「帝釈天」「水天宮」「閻魔(えんま)大王」など、われわれ日本人にもおなじみの神々は、すべて古代インドに古くから伝わる神々である。簡単にいうと、会社が拡大されてきたので、現地社員を採用したということである。
とぎすまされたシステム
「お経」というのは、となえることで大変ご利益(やく)があるといわれている。しかし、八万四千経といわれるほど、膨大な量があるので、なかなかご利益を受けるまえに、チャンスをにがしてしまう恐れがある。 そのために「おん。あぼきゃ。べいろしゃのう。まかぼだら。まにはんどま。じんばら。はらばりたやうん。」という、梵語にして「二十一文字」にまとめ上げ、これを誦するだけで八万四千あるといわれるすべてのお経をとなえたと同じご利益があるという秘密兵器を開発したのである。 しかし、これだけ短くしたものでも、緊急時には対応できない場合がある。そのときは、社長である大日如来の『呪文”である「アビラウンキャン」といえば、すべてのお経をとなえたと同じ効力がある。 しかし、チャンスの女神は「前髪しかない」といわれている。「アビラウンキャン」もいえないような最緊急時には、『あ』といえばよいのである。これは、大日如来の「一字真言」といって、この『あ』というだけで、すべてのお経の『ご利益”の効果が得られるのである。 わたしたちも、何か突発的なことが起こったとき「あ!」と声を出す。そして、命びろいをした経験があることと思う。これは、この「あ!」によって、八万四千のすべての仏たちが、わたしたちの援軍となって、敵から守ってくれたのである。これは多少余談になるが・・・・・・。 このように、仏教というのは大変合理的に組みたてられている。すなわち、「仏教のすべてのシステム」は緊急時対応用として構築されているのである。 臨戦態勢にある空母エンタープライズの甲板に、エンジンをフル回転して待機しているファントムジェット戦闘機と同じである。指令官の合図一つで瞬間的に飛びたち、敵めがけて発進していくように、「とぎすまされている」のである。 なぜなら、人間の困った問題は、予告なしに突然やってくるものである。そのとき、「ちょっと待ってください」では仏の役割は達成されない。それゆえ仏陀が開発した悟りのシステムも当然、緊急対応時に役立つように、とぎすまされている。 万年筆の良し悪しは書きたいときに、すぐインクの出る万年筆である。外観の豪華さではない。「とぎすまされたシステム」を、平常時のうちから活用していれば、緊急時にはその対応がいちだんと早いと思う。 もっとも大切なことは、そのような「とぎすまされた有効なシステム」を、平常時から活用していれば、困難な問題などは、「それ以前に解決してしまって起こらない」ということになるわけである。成功した経営者、ビジネスマンは、この真理を知っているかのごとく、つねに余裕をもちながらみごとに難問を解決してみせている。