―とどまらぬことを教える禅の言葉

「百尺竿頭進一歩」。
この言葉は道元禅の文脈で語られますが、その源流は、中国禅にあります。

中国・宋代の禅の歴史書『景徳伝灯録』などに記された、長沙景岑(ちょうさ けいしん)の偈(げ)です。

「百尺竿頭不動の人、
入り得ると雖も未だ真に非ず。
百尺竿頭に進一歩して、
十方世界に全身を現ぜん。」

「百尺の竿の先に至り、そこに留まって動かない者は、
たしかに悟りの入口には触れている。
しかし、まだ「真」とは言えない。
そこからさらに一歩を進めてこそ、
全身が十方世界――この世界そのものと一体となって現れる。」

この一句が示しているのは、
完成や安定をよしとしない、禅の厳しさです。

とどまることへの、静かな否定

百尺の竿の先とは、
努力を尽くし、理解を重ね、
「ここまで来た」と思える地点でしょう。

しかし禅は、そこで立ち止まることを許しません。
安心も、達成感も、
そのままでは「停滞」に変わってしまう。

悟りの入口に立ったからこそ、
なお一歩を踏み出せ、と促す。
禅の言葉は、やさしくはありません。
けれど、どこまでも正直です。

若き日の記憶 ― 限界から、あと一歩

この言葉に触れると、
若い頃の、記憶がよみがえります。

私はかつて、
株式会社ワタミの渡邉美樹さんから
直接、薫陶を受けた時期がありました。

その折、何度も投げかけられた言葉があります。

「限界から、あと一歩進め」

もう無理だ、ここまでだ、と思った瞬間に、
さらに一歩を出せるかどうか。
そこに、仕事の本質も、人の成長もあるのだと。

当時は、叱咤として受け止めていましたが、
いま振り返ると、
あの言葉もまた、
百尺竿頭進一歩の現代的な響きだったのだと感じます。

禅は、前へ進めと言っているのではない

ただし、誤解してはならないことがあります。

「さらに一歩」とは、
成果を増やせ、もっと高みへ行け、
という意味ではありません。

それは、
分かったと思った自分、
到達したと思った地点、
そこで安住しようとする心を――
手放せ、という呼びかけです。

前へ、というよりも、
執着から離れよ、という方向。

だからこの一歩は、
勇気を要します。

只管打坐 ― 立ち止まらぬために

では、その一歩は、
どこへ向かって踏み出されるのでしょうか。

禅は、そこに説明を与えません。
代わりに示されるのが、
只管打坐(しかんたざ)です。

ただ坐る。
何かを得ようとせず、
何者かになろうともせず、
ただ、今ここに坐る。

百尺竿頭に立った者が、
踏み出すべき一歩とは、
どこか遠くへ行くことではなく、
条件づけを離れて、ただ坐ること
なのかもしれません。

とどまらず、求めず、
ただ坐る。

百尺竿頭進一歩――
その行き先は、
静かに坐る、この一点に
すでに開かれているのだと思います。

投稿者プロフィール

本領亮一
1967年千葉県松戸市生まれ。青山学院大学卒業後、大和証券系VC、ワタミ、CCCを経て31歳で株式会社ジップを創業。22年間ブックオフ加盟店4店舗を運営し、2020年事業譲渡後、株式会社本領として新たなスタートを切る。
現在はマンダラチャート認定コーチとして、仏陀の智慧を経営に活かす活動や、合氣道の指導、経営戦略・人生論の研究を続けている。noteやSNSで日々の学びと気づきを発信している。