仏教は「問題解決のシステム」だった

松村寧雄先生は、現代のPDCAと対比しながら話されていた。

多くの現代的な問題解決は、まず「目標」を立てる。

しかし仏陀は逆だった。“現状(結果の事実)”から出発したという。

その枠組みが、四諦(したい)である。

・苦諦:いま何が起きているのか(現状の観察)

・集諦:真の原因は何か(原因の分析)

・滅諦:苦が消えた姿とは何か(目標=仮説の判断)

・道諦:どう実践するか(方法の実践活動)

そして道諦が、具体的には八正道(はっしょうどう)という「日常実践」になる。

この仏陀の智慧の凄さは、「難しい教義」ではなく、人間が生きる上で避けられない苦を扱う、実務的な解決体系として提示されている点にある。

私が掴んだ核心:「聞思修」は学びの“呼吸”である

仏教において悟りに至る3つの段階を「聞思修」という。

・聞:聞く・学ぶ(情報を受け取る)

・思:考える・咀嚼する(自分の理解にする)

・修:実践する(身体・行動・習慣に落とす)

そして重要なのは、これが一回で終わるのではなく、循環し続けるという点だ。

学びは「聞いたら終わり」ではない。

考えたら終わりでもない。

実践したら完成でもない。

むしろ、実践したことで初めて、次に聞くべき問いが生まれる。

つまり、聞思修は螺旋を描いて深まっていく。

私はこれを、学びの呼吸だと思っている。

吸って(聞)、噛み砕き(思)、吐き出し(修)、また吸う。

四諦は、聞思修の“構造そのもの”だった

私の中で四諦と聞思修が重なって理解が深まってきた。

・苦諦:現状を見つめる → ここが「聞」の入り口

・集諦:原因を探る → 「思」の領域

・滅諦:こうありたいを描く → 思を深めた仮説

・道諦:八正道で実践する → 「修」そのもの

つまり、四諦は“仏教の問題解決システム”であると同時に、人間の学びの成熟プロセスでもあるのだろう。

だから仏教は「頭で理解する学問」ではなく、「生き方としての学び」になっている。

「正しさ」よりも、「日常に落とす」

八正道というと、どうしても“道徳のチェックリスト”のように受け取ってしまいがちだ。

しかし、聞思修の実体として受け取れば、日常の行動指針となる。

実践とは、派手な成果ではない。

日常の中で、小さく整え続けることだ。

・正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

こうした「一つひとつの小さな修」が、

人生全体の方向を変えていくはずだ。

「繰り返しを楽しめる人が、深くなる」

聞思修とは、結局繰り返しである。

そして四諦もまた、人生の中で何度も回る。

・苦は形を変えて現れる

・原因も形を変えて潜む

・目標(滅)も更新される

・実践(道)も磨き直される

だからこそ、思う。

繰り返しを「退屈」と感じるか、

繰り返しを「深まり」と感じるか。

その差が、聞思修の差になる。

誰かの正解は、私の正解ではない。

自分の聞思修を回し続けることで、「正しさ」らしいものに近づくことができるかもしれない。

投稿者プロフィール

本領亮一
1967年千葉県松戸市生まれ。青山学院大学卒業後、大和証券系VC、ワタミ、CCCを経て31歳で株式会社ジップを創業。22年間ブックオフ加盟店4店舗を運営し、2020年事業譲渡後、株式会社本領として新たなスタートを切る。
現在はマンダラチャート認定コーチとして、仏陀の智慧を経営に活かす活動や、合氣道の指導、経営戦略・人生論の研究を続けている。noteやSNSで日々の学びと気づきを発信している。