■ 満月の夜に聴いた、鎮魂の響き

2025年10月7日。牡羊座の満月の夜、私は横浜・三溪園の観月会で薩摩琵琶を聴きました。

琵琶の響きは、まるで魂を鎮める“薬”のように感じられました。

その瞬間、私の内側で何かが脱皮するような感覚がありました。

■ ブッダの言葉──蛇が皮を脱ぐように

スッタニパータ「蛇の章」第1詩句には、こうあります。

「蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、

怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、

この世とかの世とをともに捨て去る。

─蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」

(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫)

怒りとは、心に広がる毒です。

放っておけば他者を傷つけ、自分自身をも蝕む。

しかし、ブッダは言います。

その毒を薬で制するように、「慈(メッター)」と「忍辱(にんにく)」によって怒りを鎮めよ、と。

薩摩琵琶の低音がその言葉を思い出させました。

音は怒りの奥にある「悲しみ」や「孤独」を溶かし、やがてそれは、静かな祈りへと変わっていきました。

■ 永久の孤独を歩むということ

帰宅して、執行草舟氏の『超葉隠論』第一章「永久孤独論」を読み返しました。

そこで語られていたのは、まさにブッダの教えと響き合う世界でした。

「永久の孤独」とは、寂しさではなく、魂の真実に従って生きる覚悟です。

それは他者と争わず、迎合もせず、ただ自らの誠を貫くという、静かで峻厳な道。

仏典にはこうあります。

「もし賢明で協同し、行儀正しい、明敏な同伴者を得ないならば、

王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のように、ただ独り歩め。」

(『スッタニパータ』46番)

さらに、『ダンマパダ』330番にもこう記されています。

「愚かな者を道づれにするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪をなさず、欲少なくあれ。− 林の中にいる象のように。」

「犀の角」も「象」も、孤高の象徴です。

群れを離れ、ただ自らの道を歩む。

それは、誠に従って生きる者の覚悟の姿。

怒りを超えた先に見えるのは、他人を責めることでも、自己を責めることでもなく、孤独の中でこそ立ち上がる“誠の自己”です。

■ マンダラの中心に還る

松村寧雄先生は言われました。

「遭難しゃうんです」「やられちゃうんです」〜 中心を忘れると、人は感情に飲まれる、と。

怒りも、孤独も、中心を離れたときに苦しみになります。

けれど、中心に還ると、それは「誠の証」となります。

マンダラとは、感情を抑え込むための図ではなく、

感情を真ん中に戻すための道具です。

怒りをもってよし、孤独をもってよし。

それらを中心に還すとき、人は「本領を生きる者=旅人」となるのです。

■ 終わりに──孤独のなかに立ち上がるもの

薩摩琵琶の音が、今も胸に響いています。

それは怒りを鎮める鎮魂の響きであり、孤独を受け入れる勇気の音でもありました。

蛇のように古い皮を脱ぎ、犀の角のように真っすぐに、象のように静かに、堂々と歩む。

孤独であること—

それは、誠を貫く者の宿命であり、自由であることの代償でもあります。

投稿者プロフィール

本領亮一
1967年千葉県松戸市生まれ。青山学院大学卒業後、大和証券系VC、ワタミ、CCCを経て31歳で株式会社ジップを創業。22年間ブックオフ加盟店4店舗を運営し、2020年事業譲渡後、株式会社本領として新たなスタートを切る。
現在はマンダラチャート認定コーチとして、仏陀の智慧を経営に活かす活動や、合氣道の指導、経営戦略・人生論の研究を続けている。noteやSNSで日々の学びと気づきを発信している。