執行草舟氏の著書『超葉隠論』には、「永久の孤独」という言葉が繰り返し登場する。一見すると冷たく、厳しい響きをもつこの言葉。しかし読み進めるうちに、それは“寂しさ”や“孤立”を意味するのではなく、「魂の真実に従って生きる」という覚悟と自由を指すのだと気づかされる。

そのとき、ふと心に浮かんだのが、仏陀の言葉だった。

犀の角のように、ただ独り歩め

『スッタニパータ』46番には、こうある。

もしも汝が、賢明で協同し、行儀正しく、明敏な同伴者を得ないならば、

警えば王が征服した国を捨て去るようにして、

犀の角のように、ただ独り歩め。

ここにあるのは、「自己に忠実に生きる者は、孤独を恐れてはならぬ」という決意だ。「犀の角のように」という比喩は、鋭く、孤立し、妥協せずに進む者の象徴である。

林の中の象のように

また、『ダンマパダ』330番には、こう記されている。

愚かな者を道づれにするな。

独りで行くほうがよい。孤独で歩め。

悪をなさず、欲少なくあれ。

——林の中にいる象のように。

ここでも「孤独」は、誠実さと精神的自立の証として語られる。林の中の象のように、他を害することなく、静かに、堂々と歩む姿。それは、まさに執行氏の語る「永久の孤独」と響き合っている。

永久の孤独とは何か

「永久孤独論」で執行草舟氏はこう語る。

人間は最後には、誰にも頼らず、何者にも寄りかからず、

ただ一人で生き、一人で死んでゆく。

これは、仏陀の教えとも呼応する思想である。それは「孤独を受け入れよ」という表面的な慰めではない。むしろ「孤独であることによってしか、人は誠を貫けない」という、生き方そのものに対する厳しくも美しい覚悟の表明だ。

終わりに—孤独のなかに立ち上がるもの

今回の読書会で、ひとりで読んでいたときには見えなかった新たな気づきが生まれた。

孤独とは、恐れるものではない。

それは、魂の尊厳が立ち上がる場所であり、誠に従って生きる者が必ず通る道だ。

犀の角のように、象のように、ただ独り歩むその姿にこそ、人間の本領が宿る。

孤独であること——それは、誠を貫く者にとっての宿命であり、同時に自由の代償でもあるのだ。

投稿者プロフィール

本領亮一
1967年千葉県松戸市生まれ。青山学院大学卒業後、大和証券系VC、ワタミ、CCCを経て31歳で株式会社ジップを創業。22年間ブックオフ加盟店4店舗を運営し、2020年事業譲渡後、株式会社本領として新たなスタートを切る。
現在はマンダラチャート認定コーチとして、仏陀の智慧を経営に活かす活動や、合氣道の指導、経営戦略・人生論の研究を続けている。noteやSNSで日々の学びと気づきを発信している。