私たちは、日々の生活において、怒りの感情を抱いてしまうことがあります。

他人の言葉に傷ついたとき、思い通りにいかないとき、自分自身の不甲斐なさを責めるとき。

私自身、これまで多くの場面で怒りに心を揺さぶられてきました。

そして何度も、怒りを外に向けるだけでなく、自分自身に向けて苦しんできたのです。

今回は、そんな怒りという感情に、仏陀の智慧、そして聖書の言葉を通してどう向き合えばいいのかを考えてみたいと思います。

三毒のひとつ「瞋(いかり)」─怒りは心を曇らせる

仏教には「三毒(貪・瞋・痴)」という教えがあります。

この三毒は、心を濁らせ、苦しみを生み出す根本的な煩悩です。

その中でも「瞋(じん)=怒り」は、最も破壊的な力を持ち、

人との関係だけでなく、自分自身との関係までも傷つけてしまいます。

仏陀はこの怒りに対して、次のように説いています。

「怒る者には、忍辱を。」

「忍辱(にんにく)」とは、ただ我慢することではありません。

怒りの感情を否定するのでも、抑え込むのでもなく、

それに巻き込まれず、抱きとめ、超えていく力のことです。

これはまさに、マンダラ思考でいう「中心軸」に立ち戻り、自らの感情を客観的に見つめるプロセスそのものでもあります。

愚かさを選ばず、智慧を選ぶ─聖書に学ぶ怒りの制御

怒りに関しては、聖書にも非常に示唆深い言葉があります。

「愚か者は自分の感情をさらけ出す。

知恵ある人はそれを制し静める。」

― 箴言 29:11(新共同訳)

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。

日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」

― エフェソの信徒への手紙 4:26(新共同訳)

怒りを感じることは、誰にでもある。

しかし、それをそのままぶつけるのではなく、一呼吸おいて、自分の内側を整えること。

それが「智慧ある人」の生き方であると、教えられています。

「日が暮れるまで怒ったままでいてはならない」という言葉もまた、仏教の「一日一生」の精神と通じるものがあります。

私自身の怒りとの向き合い

私は正直に言えば、怒りやすい性格です。

外に対してだけでなく、ときにその怒りは内側へと向かい、「なぜ自分はできないのか」「なぜこんな自分なのか」と、自己否定を深める原因にもなっていました。

けれど、仏陀の智慧に触れ、聖書の言葉に心を重ねながら、少しずつこう思うようになりました。

怒りは、否定するものではない。

それは「自分の大切にしている価値」が傷つけられたサインである。

だからこそ、その怒りの奥にある本当の願いや信念を見つめることが大切なのだ、と。

怒りの奥にある「中心」を見つめる

怒りは、往々にして私たちを「外側」に向けて走らせます。

しかし、マンダラ思考ではむしろ、怒りが湧いたときこそ、「中心」に立ち返るチャンスだと捉えます。

感情に流されるのではなく、感情の「声」を聴くこと。

怒りが教えてくれる、「私は本当は何を大切にしたいのか?」という問いに立ち返ること。

それこそが、怒りを智慧に変える道だと、私は信じています。

おわりに──怒りは、魂からの呼びかけかもしれない

怒りは、あなたの魂が「何かが違う」と叫んでいるサインかもしれません。

その声を無視せず、支配されず、丁寧に見つめること。

そして、自分の中心軸に戻って選び直すこと。

仏陀が説いた「忍辱」も、聖書が語る「怒りを制する智慧」も、本質的には私たちに自由と解放の道を示してくれています。

怒りを智慧に変え、今日という一日を、静かに、誠実に、生きていきましょう。

投稿者プロフィール

本領亮一
1967年千葉県松戸市生まれ。青山学院大学卒業後、大和証券系VC、ワタミ、CCCを経て31歳で株式会社ジップを創業。22年間ブックオフ加盟店4店舗を運営し、2020年事業譲渡後、株式会社本領として新たなスタートを切る。
現在はマンダラチャート認定コーチとして、仏陀の智慧を経営に活かす活動や、合氣道の指導、経営戦略・人生論の研究を続けている。noteやSNSで日々の学びと気づきを発信している。